空っぽの人間カメラと生の余韻。
前回の記事と関連してます。
みんな共通の場所をみている。
死んでしまってもいなくなってしまっても、生の余韻がある。
いろんな人を、場所を、時間を往き来して混ざったわたしたち。
人間は空っぽで、導かれて引っ張ってきて、自分なんて意味ないような気がしてくるけど、そのひとりひとりのフィルターを通すと目に見えないものが見えるようになるんだから、自分がどんなフィルターであるかってすごく大事なことだと思う。
こちらの動画をみてすごくいろんなことを思いました。
長いトークショーだけれど、必要な人に届きますように。
まずひとつ。
「完成した物語」というのはもう存在していて(アカシックレコードもそう)、しかもそれはひとりひとつのものではなくてみんなが同じところをみることができる。
そこから物語を、絵を、音楽を、言葉を引っ張り出して、媒体である空っぽのその人のフィルターを通してこの世界に出現させる。
その中にたくさんの体験が重なって、自分が作った現実もあって、今過去未来はぐっちゃぐちゃに行ったり来たりする。
もうひとつ。
もういなくなってしまった人たちについて、まだいる感じがしたり写真に残っていたり、存在しなかったときと自分の世界に存在していたとき、そしてまた存在しなくなったときはどう違うのかよく考えていたんだけど、これも動画の中で話されていました。
「生の余韻」というのは誰でも感じたことがあると思う。
いないんだけど、いる感じ。
いなくなった人を思い出すとき、思い出される向こう側でもその人のエネルギーがピクピクする感じ。
思い出すということ、想うということは、必ず相手にも反応がある。
簡単な言い方をすると、思いは届いている。
きっとそれが証明されている科学もあると思うのだけど、そんなことより自分の感覚でそう感じるから、きっと本当のこと。
こんなことを考えていると、やっぱり「今ここを生きる」ということに戻ってくる。
それしかできないのがわたしたちで、過去を悔やんだり未来に期待したりするのは、面白くって楽しくって、そんなふりをしているんだよね。
カラーが抜けてモノクロになると、より普遍的で対話がしやすくなるという話も面白かった。
この動画に出会ったのも、物語の動画配信のアイディアも、最近毎晩「ゼロポイントに戻る」というのをやっているからだと思います。
瞑想が苦手でも、これをすると結構感覚が面白くて鋭くなるからやってみてね。
過去の自分をリセットして、(やってきたこと、職業、実績、すべて忘れて、名前すらもないような感じになる)今ここにいる自分だけに集中して呼吸をすると、ここにいる感覚がずしーん!ってくると思うよ。