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彼はほのぐらいホテルのフロントに座って、旅行に行こうかと考えていた。
(外は雪だ。ホテルってのは、外から見るといつだって周りの倍は明るい。しかし中に入ってみると驚くほどほの暗い。)
ぼんやりと、取ることのできない休暇について考えていると、この世界からはほど遠く離れた所に行ってしまいそうな気がした。
しかし戻りたくもないな、彼は思った。
眠たいときにぼうっと物体を見ているときに目が離せなくなるのと同じだ。
このままでも良いような気がしてしまう。
そんな風にしてこちらの世界から遠ざかっていたとき、ドアが開いて女があいさつをした。
「こんばんは」
彼は愛想よく完璧な笑顔を向けた。
彼は外見に関して言えば完璧だった。
賢そうで清潔感があり、彼がほほ笑めば誰もが彼を好きになった。
「ご予約ですか?」
彼は机のひきだしから予約票を取り出してファイルを調べ始めた。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
彼が顔をあげるとそこにはもう女の姿はなかった。
おかしいな。
彼は、自分がもうすでにあちら側の世界に引き込まれてしまったのではないかと戸惑った。
長く考え事をしすぎたらしい。
しかし、事務所のドアがあいて先ほどの女が中からでてきた。
「お手洗いと間違えてしまって。ごめんなさいね。」
女がほほ笑んだので彼も例のほほ笑みを返した。
彼女が名前をつげたので、彼はファイルを調べた。
「四階の一番手前の部屋です。鍵は、外出の際フロントに預けてください。」
女はほほえんで階段を上がった。
彼はふと不思議に思った。
ホテルに泊まる客がハンドバッグ一つしか持っていないのか。
彼はこの仕事について五年になるが、大体の客はエレベーターのないこのホテルで荷物を上まで運んでくれないかと頼むのだ。
彼はなんだか手持無沙汰な気分になった。
おかしな気持ちだ。
自分が忘れ去られてしまったかのような、何かを置き忘れてきたかのような・・・
彼は机の向かいにいかかっている鏡を見つめた。
なんだか少し疲れているようだ。
彼はきれいな茶色の瞳で自分の姿を見つめ、その年代の誰もがするようにあごをさすった。
本当に旅行にでも行こうか。
一人で座っているフロントの仕事というのは、考え事には最適だ。
たまに出入りする客と軽く挨拶をかわし、「たのしんで」「よい旅行を」と言葉をかけていればいいのだ。
しかしそれはまた、孤独な仕事でもあった。
同僚もいない。
人と深くかかわることはなく、かろうじて客との軽い会話で自分を世界とつなぎとめているだけだ。
一日の半分以上は考え事をするか、スペイン語や英語の勉強をしている。
ぼくはどこへ行くのだろうか。
ぼくは何かを失った。
気づきもしないうちに。
年も取った。
前のように毎晩友達と遊び歩くことだってできない。
仕事だってある。
金が必要だ。
金がなけりゃ何もできない。
でもこのままでよいのだろうか。
五六歳まで金をためて、それから人生を楽しもうといっていた父は五四歳で死んだ。
何て人生だ。
ぼくは歌いたかった。
本も書きたかったし、スポーツだってしたい。
ぼくはここで何をしている?
何を残そうとしている?
結婚だってしてない。
別に焦っているわけじゃない。
ただ考えてみると、今までも今もこれからも、同じように生きるのか、それでいいのかさえ分からない。
やりたいことを全て、やろうと思えばできる。
簡単なんだ。
簡単だから、やってもつまらないんじゃないか。
自分がもう一人いればいいし、昔に戻りたい。
犬を飼いたいし、クジラを見に行きたい。
暖かくなって、旅行に行って、いろんな人に会いたい。
一日中映画を見たい。
涙を流したい。
料理をしたい。
「ちょっといいかしら。」
彼は頭をあげた。
目にかかった茶色の前髪を左手ではらいながら、女にほほ笑んだ。
「よかったら、今夜一緒に夕食でもどうかしら。今日ここに来たばかりで、友達もいないし、何がおいしいかもわからないの。」
「もちろん。よろこんで。」
男は完璧な笑顔を女に向けた。
女も笑った。
「今夜の当番は代わってもらいます。19時に、ここで。」
男はそう言って女の手をとった。
信じられないくらい、彼はこの女のことが好きになっていた。
女はまたほほえみ、マフラーをまきながら外に出た。
しばらくして、彼もドアをあけて外に出た。
暖かい空気に触れて彼はジャケットを脱ぎ、中に入ってそれを机の上に置いた。
旅行にでも行こうか。