鉄棒から手を離すこと。
颯太は怖かったけれど、思い切って手を離した。
するりと銀色の棒を離れた両手はまっすぐにのびて下へ下へと足から落ちていく。
目を閉じるとほこりの匂い。鼓動はどきどきと全身を音になってかけめぐる。
戻れないかもしれない。
颯太はふと考えた。このまま終わりのない暗闇へぼくは落ちていくんだと不安になった。
それでも颯太は目を開けなかった。怖かったからじゃない。もう怖くはない。
心地よく優しい風と空気が颯太を包んでいたから、不思議とおだやかな気持ちになった。
空を飛んでいるのかと思ったけれど、実際にはするすると落下しているだけだった。
ずいぶんと時間がたったような気がする。気がつくと颯太は食卓について卵焼きの香りに包まれている。
なつかしい、この風景に胸がつまったように全身がこわばった。後ろにはお母さんがいるんだろう。黄色いまるい卵焼きに包丁を入れて、ぼくらのためにお皿に綺麗に並べてる。
横には妹が座ってテレビをみている。昨日のオリンピックの、悔しい銀メダル。
メダル。
そしてぼくは。
こんな風になってさみしい気持ちがするけど、ぼくは手を離してよかった。今ここへ導かれたからではない。
ぼくは幾度も手を離してきて、みんなが反対しても、ぼくはなんどもなんども、あの鉄の棒から手を離してきた。
何百回も落っこちて、ときには円を描いた。まっすぐに着地するときもあれば着地しないこともあった。
すべてぼくが選択して手放してきた。後悔はしてない。
手放した先には、いつもあかるい景色があった。光があった。光はぼくを強くした。