こんにちは!
「いい歌の定義ってなんだと思う?」
ってみうちゃんに聞かれて、過去のこと思い出しながら語っていました。
考えていて出てきたひとつの定義は、「演奏者自身がたのしんでいること」
「これを伝えたい!」とか「こんなメッセージを歌にのせました」はまあいいんだけど、「こういう風に受け取ってほしい」とかメッセージを限定したものが実はわたしはあまり好きじゃないのです。
なんだか偉そうで。
受け取る人の心を、勝手に決めつけている気がして。
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これはわたしの意見だから賛同する人だけ読んでもらえればいいと思うのだけど、例えばわたしはこども向けに何かを作るということもする必要がないと感じています。
前にこの話で盛り上がったことがあるのだけど、たとえば、
「こども向けの演奏会だから簡単な曲をやろう」
って、こどものことなめてるし、大人が勝手にもうけた基準に当てはめていて窮屈な感じがする。
芸術家は例えば曲とか、演劇とか、本とか、絵とか、なんでもそうなんだけれど、「子どもが理解できるようにこうしよう」とか「子ども向けに作り変えよう」とかする必要がないということね。
わたしはこどもから大人までファンがいる作品が好き。
それは単に誰かをターゲットにしないで、創作や演奏中にある意味観客は消えていて、作者が楽しんで作られているからだと思う。
「理解」がゴールじゃないとすると、なにかを作るとき、クリエイターがどのくらい大きなエネルギーを出しているかが大切になってくる。
子供が参加できるコンサートでアニメの音楽を奏でるのではなくて、演奏者本人が本気の演奏を、わくわくする曲を演奏する。
曲目は大人向けの音楽でも、ジャズでも、クラシックでも、演奏者が心から楽しんで楽器を奏でれば、ちゃんとメッセージが届く。
実際にそうやって演奏している人が「不思議と子供は静かに、ちゃんと聴く」と言ってたんだよね。
そのとき響くのはさっき言ったような偉そうな一方的なものではなくて、受け取った人ひとりひとりが「まるで自分の曲みたいだ」と感じられるような幅のあるメッセージ。
「これ、わたしの曲だ」って。
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作者や演者が曲にメッセージをのせることは別にいいのだけど、それが外向きになるといろんな可能性を狭めているような気がする。
彼ら自身が楽しんで豊かな気持ちで演奏すれば、それは自然に相手に受け取られて自由な解釈がされると思うのです。
それは観客を子供を相手を、信頼すること。
相手にゆだねるおおらかな勇気を持つこと。
子供なんかは頭で理解しているかと言われると正直わからないけど、魂は、心は、受け取る力があると思っています。
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わたしは『逝きし世の面影』という本が大好きなのですが、そこには江戸時代の人々のくらしが描かれています。
この本には江戸時代の文化や風習について、外国人が書いたレポートがまとめてあり、かなり興味深いです。
外国人目線だから、みんなでお風呂に入ることにびっくりしたり、食堂に忘れたお財布が一日たっても盗まれないでそこに置いてあっと感動したり、貧しいのに識字率が高いことに注目したり。
中でもわたしが好きなのは、日本人は笑い上戸で笑顔に満ちていると、日本人の豊かさが書かれていること。
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わたしは江戸時代の浮世絵に描かれている人々も大好きなんです。
彼らはリラックスしていて、人生を楽しんでいて、いつもゆるゆるした姿勢ですよね。
お散歩したり、旅をしたり、お団子を食べたり、ふんどしでうろうろしたり、お酒飲んだり。
本の中では子供との関わり方についても書かれています。
江戸時代には大人子供の区別をつけずに、大人が本気で子供のあそびを楽しんでいたとか、夜は早く寝かせるのではなくて子供も大人が遊びに行く場所に一緒に行ったとか。
逆にしっかり大人子供を分けていたヨーロッパでは子供のための物語やファンタジーが発展しました。
どちらもいいよね。素敵。
でも江戸時代の人たちのその人生をたのしむ姿勢に、誰かのためじゃなくて自分自身がたのしいと思うことをしているからだとこの本のことを思い出しました。
いつも言っていることだけど、自分自身をたのしませたら、人のこともたのしませられる。
自己中とはちがうんだよ、心の余裕の話をしています。
人のためにからっぽになるくらいなら、人なんか無視して自分を満たそう。
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みんなはなんだと思う?いい歌の定義。