「ださい」に対する過剰な恐怖心の謎
こんにちは!聡美です。
この前同じ水瓶座のお友達と話していて気づいたのですが、わたしたちは「ださい」ということに対してとっても不快な感じがするようなのです。(全く該当しない水瓶座さん、ごめんなさい。)
友達は「大切な人を傷つけることの次にやってはいけないことだ」と言っていました。
別に自分が特別センスがいいとも思っていないのですが、とにかく「ださい」と思われることがすごく嫌だなと感じるし、「これってなんかださいから言いたくない」とか思ったりします。
わたしにとって最上級の悪口かもしれません。
本当は大好きなものでも、謎のわたし基準の「ださいかどうか」の判断によって取り入れたり取り入れなかったりするのです。
お気づきの方いると思いますが、この思考が最高にださいです!笑
服や選ぶもののセンスについてはもちろん、ミーハーなことは好きじゃないふりをしたりみんなが好きなものは興味がなくなったりする、なんともあまのじゃくな性格なんです。
小説も、きちんとした本が素晴らしいと思っていてブログや携帯小説はばかにしてました。
本当にどうでもいいことは無関心なはずなので、「嫌い!」って感じるのはちょっとの「好き」が含まれている証拠ですね。
今では大好きなhappyちゃんも前々から知ってはいたものの「happyちゃんて!名前ださ!」と思ってブログを開いていなかったのです。笑笑
彼女が最近作った曲も最高だよね!♡
ずーっとリピートしています。
くだらなすぎて笑えますが、この思考ってなんか面白い。
こうなったひとつの理由に、母がジュエリーデザイナーであり我が家はずっとファッションに関わっていたということがあるかもしれません。
わたしたち三姉妹は大学生になってもひとりで買い物ができませんでした。
母の最後のOKがでないと購入に至らないのです。
つまり、自分で決めないで人の評価にまかせてそれで安心しているっていう感じです。
絶対的な「イケてるファッション」というものがあり、そこからはずれたら「ださい自分」になってしまうという謎の恐怖心がありました。
母親に認められたい!っていうよくある思考かもしれません。
人からどう見られるか、人からどう思われるか。
人目が気になりすぎるとこれが恐怖になっていくのだな、と考察します。
逆に、特に好きでも嫌いでもない人のセンスが光っているのを見つけたときは「ほう、なかなかやるじゃないか」とここでも謎の上から目線でその人を見るようになったりもします。
「好きな人の私服や趣味が(わたし的に)ださい」とか、結構深く悩みます。笑
これらすべて、自分ひとりだけの世界の中で繰り広げられており、周りの人は誰も気にしていません。
今日もお友達と食事をしながら話していたのですが、許せないものがあるときって、誰より自分が制限やブロックを持っているときです。
「わたしは最高!で、みんなも最高!」
と思えているときに認められないものってないと思うのですが、「わたしって実は自信がない」というときに恐怖心や許せないものを持っているな〜と気がつきます。
宗教も新しいビジネスもスピリチュアルお金も恋愛観も、「許せない!」って思っちゃう人は自分の中に恐怖心やブロックがないか探してみたらいいかも。
世界は自分で創っているよね〜〜。
でもさ、こだわりがあるっていいことだし自分だけの世界、自分だけのセンスを大切にするのって素敵だよね。
「恐怖心あった!こわ!」って一回気づけたら、引き続き自分の大好きなものを大好きなままで、誰になんと言われようと誇りを持っていようと思います。